新連載コラムの提案と、日印交流での私にとっての幾つかのポイント/荒木重雄
日印交流・再発見 その1:荒木重雄
新連載コラムの提案と、日印交流での私にとっての幾つかのポイント
荒木重雄
3年の準備期間をおいて昨秋、日印文化交流ネットワークが誕生した。これまでやや別々な流れであった仏教系と非仏教系の日印交流が融合して相乗効果を発揮するためのプラットフォーム造りや、互いの経験や知識を寄せ合って日印文化交流の深化・発展を図ることがその創設の趣旨に含まれている。
ならば、これまでの日印関係を多角的な視点で振り返り、再発見・再認識するのも意義あることであろうと、専門的研究者も含め、多様な立場でかかわった、あるいは、かかわっている人たちの、見解や経験を繋ぎ合わせるリレー・トークふうな連載コラムを提案することにした。
まずは、日印関係史の大筋のなかで筆者が印象に残ることをメモ的に記してみよう。
◆◆ 日本人の心に伝わる天竺への憧れ
日本の仏教文化の最初の金字塔ともいうべき東大寺大仏の開眼がインド人僧・菩提僊那の手によって行われたことは周知のことだが、以来、インド(天竺)への憧れは庶民にも脈々と伝わっていた。たとえば、幕末・陸奥の三閉伊一揆で逃散・強訴した農民は、「われらは天竺へ赴く」とむしろ旗に墨書した。
明治に入ると、日本の産業近代化を牽引した一分野である紡績業はインド産の綿花に依存した。当時のインドは英国の植民地支配下にあり、1903年に大隈重信、澁澤栄一、長岡護美らによって創設された日印協会は、もちろん綿花輸入の促進を第一義としていたが、日英同盟を尊重しながらもターターなどインドの民族資本・民族運動にも心を寄せ、「かつて日本が中国およびインドから受けた文明の恩恵は非常なもので、物質上でも精神上でも今日欧米の文明から受けつつある利益に譲らない」むね大隈が記しているように、インドへの尊敬を忘れてはいない。
第二次大戦にかけては、日本の中国進出をガンディーやタゴールが非難するなかで日本との共闘を志向する独立運動指導者スバス・チャンドラ・ボースらを迎え入れ、やがて無謀なインパール作戦の悲劇へと突き進むこととなった。
インドの風土と文化にあれほど心酔していた詩人・野口米次郎が、一変、『蹶てよ印度』と上から目線で好戦的な檄を飛ばしたことも忘れられない。
◆◆ 物心両面で日本の戦後復興を支えたインド
1952年6月2日、日本とインドは正式に外交関係を樹立し、日印平和条約を締結した。
この国交樹立は、その前年に48か国と調印されたサンフランシスコ講和条約とは別に、単独講和として実現されたものである。なぜか。インドがサンフランシスコ講和条約に参加しなかったのは、この条約が、すでに始まっていた東西冷戦のなかで世界の二分化を一層促すものとして反対だったからである。
そこの事情に少し触れておこう。
戦後処理において、インドは、英連邦会議のなかにあって、英国やオーストラリア、ニュージランドが、日本の軍国主義復活やアジア市場における競争力回復を懸念して厳しい制限条項を課すことを望んだのに対し、新生日本が有利に国際社会に復帰できるよう促す寛大な講和を主張していた。ところが、当初、同様に厳しい条件で臨んでいた米国が、冷戦の始まりとともに、条件を緩和し、日本を中ソ封じ込めの一翼とする西側同盟国に位置づける講和条約に導いたことにも反対し、日本に名誉ある平等な地位を与えるべきこと、極東の平和にかかわるすべての国が調印できる講和であるべきことを主張して、サンフランシスコ講和条約への参加を拒否したのである。
沖縄・小笠原を米国の施政権下に置き、各地に米軍基地を設け、日米安保条約と抱き合わせにした講和条約は、けっして日本に名誉ある独立的な地位を与えるものではないし、中国やソ連を外した講和条約はけっしてアジアに平和をもたらすものではない、との判断であった。
したがって、インドが独自に結んだ対日講和は、賠償請求権の放棄、在印日本資産の返還、交通・貿易の最恵国待遇をはじめ、きわめて友好的・相互主義的なものであった。そのゆえもあって、国交樹立後の10年ほど、日印関係はきわめて緊密であった。日本国民の多くがインドに熱い思いを寄せた時期であった。
とりわけ、54年に当時のインド首相ネルーが中国の周恩来首相と提唱して「平和5原則」、すなわち領土・主権の尊重、対外不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存を今後のあるべき国際関係・世界秩序の原則として打ち出したこと、さらに翌年、インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議で、この原則を掲げ、米ソの覇権主義に反対し、非同盟政策のもとに第三世界の結集を図ったネルーの活躍ぶりと、その卓越した歴史観や政治哲学は、アジアの価値に基づく新たな世界平和樹立の道筋を示すものとして、いまだ敗戦の混迷のなかにあってそれだけに強く理想を希求していた当時の日本人の心を深く捉えるものとなった。
58年、中村元、田中於莵彌、土井久彌らが創設し、当ネットワーク世話人代表・奈良康明もかかわった日印文化協会や、62年、郭沫若文庫をもとに菊地三郎が創設したアジア・アフリカ語学院などの立ち上げは、こうした熱気を背にしたものであっただろう。
この時期、インドと日本はまた経済的にも緊密であった。58年、インドは鉄鉱石輸出長期契約の第1号を日本に対して結んだ。当時、オーストラリアは鉄鉱石輸出禁止、南米はまだ遠すぎた時代である。鉄鉱石供給源をインドに確保できて、はじめて、日本の戦後復興から高度成長の骨格ともなった製鉄は一歩を踏み出すことができたのである。
同じ年、インドは日本の円借款を受け入れる最初の国にもなった。この円借款を通じて日本の機械・プラントメーカーは試作品を輸出し、苦労しながら将来の市場拡大に向けて実力を養うことができたのである。
◆◆ 冷却期を補ったのは文化交流
ところが、60年代に入ると、日印関係は冷え込んでいく。高度成長の波に乗った日本は、経済優先の姿勢から、中国、東南アジア、中近東などと関係を強化する一方、インドとは疎遠になっていった。社会主義型社会をめざした公営重視、国内産業保護の政策が、日本にとって経済的魅力の乏しいものに映ったのである。
しかし、細くなった政治・経済交流を補って、両国の関係に厚みをつけたのは文化交流、とりわけ日本側からの、民間を主とする、草の根を含めた文化交流であった。60年代後半から70年代にかけて多くの若者が、高度成長のなかでひろがった物質主義・消費主義や人間疎外に違和感を抱き、あるものはベトナム反戦運動のなかから生まれたヒッピー文化に共感し、自然さや優しさを求めてインドに旅立った。
そうしたなかのかなりの数の若者が、インドの文化や価値観に惹かれ、帰国してからもインドの音楽や舞踊を学んだり、絵画や染織で表現したり、文学や映画の翻訳・紹介に努めたり、学術研究に勤しんだりした。かれらはまた地域でもさまざまな催しを行い、こうしてかれらを中心にインド文化に関心と理解をもつ広範な層がかたちづくられていった。
筆者には当時のあの顔この顔が思い浮かぶが、いまや70歳代にはいった団塊世代である。[当時の状況をしのばせる著作に渡辺建夫著『つい昨日のインド』木犀社2004年刊がある]
こうした時期の文化交流のピークを示すのが88年に催された「インド祭」である。日印両国政府の取り決めによる国家事業であったが、半年にわたり全国各地で開催された30数種目のインド文化紹介のイベントを実際に支え盛り立てたのは、上記の人たちを中心にインド文化に愛着と共感を寄せる市民であった。
ちなみに、現在にいたる、長谷川時夫の「ナマステ・インディア」の事業の源流もここにある。
経済・政治関係が先行し文化交流はあとからとトボトボついていくのが通例の日本の国際関係のなかで、インドは、文化交流が政治・経済交流に優位しそれを補った稀有の例である。
◆◆ 仏陀やガンディーに恥じない交流を
さて、20年以上にわたり冷却していた日印の政治・経済関係に温もりがさしてきたのは80年代も後半のことである。これには、天安門事件にともなう対中政策の見直しや、東南アジア諸国への経済進出が飽和状態に近づいたことなども背景に、巨大な人口を抱えるインドが有望な市場として再認識されてきたことにあった。90年代に入るとODAの供与はインドネシア、中国に次ぐ額となるが、それでも、インドへのODAが日本のODA全体の10%を占めるのに比べて、貿易は日本の貿易総額の1%、投資では日本の海外投資総額の僅か0.1%がインド向けという、経済的には低調な結びつきがまだ数年はつづいた。
91年、インドは独立以来最悪の債務危機を迎える。これを契機にインドは、貿易規制の緩和、外国企業の出資比率引き上げ、許認可制度の大幅廃止など、画期的な経済自由化・開放政策に舵を切った。現在の日印の緊密な政治・経済関係はここから始まるのである。
その後も、98年の核実験にともなう一時的な疎遠など紆余曲折もあるが、このあたりからはもう大方の読者も記憶されるところでもあるので、筆を置くことにしよう。
望むらくは今後も拡大・発展しつづけるであろう日印交流が、インドに息づく崇高な精神性ともどこかで呼応し合える、仏陀やガンディーにも恥じずに向き合える質を保持しつづけたいことである。
さて、思いつくままに書いてきたが、異論もあろう。誤認・誤解はご指摘いただきたい。筆者が記した局面でのもっと詳細な事実をご存知の方もおいでだろうし、筆者の筆や目が及んでいない局面でもっと豊かな事柄をご存知の方もおいでだろう。そういう方々が体験や見解、知識を寄せ合ってくださって、それを積み上げていったら、豊饒な「日印関係」という宝をわたしたちは手にし、そのうえにその宝を一層豊饒にする交流活動の実践を重ねることができるのではないだろうか。
この拙文がその呼び水となればこのうえない幸せである。
多様な筆者によるリレー連載コラム「日印交流・再発見」へのご期待を乞う。
[敬称略]
荒木重雄
元NHKチーフディレクター
元桜美林大学教授
1970年代よりインドに関する調査・執筆に携わり
2001~2年 プネー大学客員教授
2004年 当会代表幹事山田一眞師により得度
更新日:2018.03.22